というわけでお久しぶりな御鍵です。
テストをマルだらけで受かって若干余裕が生まれたので書いてます。・・・以前多忙に変わりはありませんが。
入浴中にばく氏との会話で決着がつかなかったことを色々と思い出したのですがその中でも特に気になったことを一つ書きます。
決してネタが無いわけではありません。というより用事を一つ書けば一週間分は書けそうな気がします・・・
随分前にばく氏とゲームの会話で盛り上がったのですが
自分が無理やりにでも勝つための特訓をしていることを話すとばく氏から異論があがりました。
曰く、ゲームを無理やり勝つというのは本末転倒ではないか、
有意義なことにはいくらでも投資するけど優越感のためにはそこまでには投資出来ない、
そして楽しく遊ぶのがゲームであって無理やりするものではないとのこと。
付け加えて偏見だ自分で言っているんですが小学校の先生に、
「ゲームは作っている人は凄いけどそれが仕事だ。
ゲームで遊ぶ人間は実は楽しめるようにプログラムされたものに遊ばれている」と教えられた、
ということを言われて時間切れで終わってしまったんですがここでちゃんと考えて一気に答えようと思います。
・・・チャットでの会話ではあまりちゃんとした返事が返せないという欠点がありますから・・・orz
無理やり勝つことについては本末転倒でもなんでもないですよ。
だって勝つために戦う人はたくさん居ますし勝つことが楽しいという人も居ますから(特に友人がそうだったり)
次に有意義無意義についてですがここでそれを無視した論を考えてみました。というか既存の論。
万物流転の世の中で有意義なものは無く全てが無意義であるゆえに全ては有なり。
いろんなものから引っ張ってきて仕上げた台詞ですがいろんなところから引っ張ってこれた時点で使い古されてますよね。
要するに有意義かどうかは人によって違うものだから決め付けられないということを言いたかったのですが
このままでは別の流れになりそうなので自制。
ですがそれだけで終わるわけにはいきません。
そもそも有意義とはどんなことなのかということが挙がっていなかったので指摘できませんでしたが
一括りにして有意義なことというのは全て自己満足に過ぎません。
どんなことをするのも全て自己満足のためです。そう考えるとゲームで自己満足するのがどれだけ安上がりなことか。
ゲームで勝つだけで満足してストレス発散できる人は本当に羨ましいですよ。
作家だって自己満足ですし自分でもそこは意識しています。ゲームで楽しむときもですが。
自己満足が出来ればそれは有意義なことになる。相手も満足できればさらに良しです。
実際自分もゲームで対戦するときは手を抜いたり本気を出したりして戦っています。
相手が飽きないように戦うにはどうすればいいかを追求した結果です。そのためにも訓練は不可欠で勝つための力が必要です。
それは作家などの職業だって同じ事です。
ただ単にその行為に賭けるものが違うだけで自己満足と言える行為です。
むしろ問うとそんなことでも満足な結果を出せないのにそれより大きなことで満足のいく結果が出せるのかどうか。
この問いには誰をという部分を抜いてあります。その意味はわかってもらえると思っています。
だから自分はどんな簡単なことであろうとも全力を持って対応する。
全力を使うということは自分の限界を測るということです。そうしないとどこまで出来るのか履き違えます。
そして先生に教えられたという言葉については一言で返せます。
娯楽用具を一切使わずに生きろとでも言うのか戯け者。
常に誰かと遊べるような環境でもないのに娯楽用具を封じられたら人生灰色です。
何故ゲームではなく娯楽と言うかというとゲームという部分には本やテレビも当てはまるからです。
凄く理不尽で偏見どころか暴言もいいとこなんですがこれはちょっと失礼な物言いです。
別にプログラムに何の落ち度があるわけでもない。なのにそれを使って遊ぶことが悪いみたいな言い方です。
それにゲームで楽しむということがどんなことなのかということを全く言ってないのがさらにマイナスです。
そもそも楽しめていれば問題ないと思うしプログラム自体も凄いんですが。
それに一部のゲームはプログラムされた通りではない遊び方をするのが楽しいゲームもありますし
その言い草だとスポーツでも何でも否定してしまう言い方です。
個人的に嫌いだからゲームを挙げただけとしか思えない暴言です。
以前の逆もまた然りの拡大解釈の別もまた然りという見方を使えば一目瞭然ですが
ゲームという部分とプログラムという部分を変えればスポーツでも否定できます。
ではいったいどこが攻撃的な言い方なのかというと「遊ばれている」というところですね。
はっきり言えばそれがどうしたということでしょう。
本だってスポーツのルールだってなんだってそうです。楽しんでもらうために作ったものです。
ちょっと斜に見れば遊ばされているという見方に見えます。
実際そうだから反論は出来ません。だから元々楽しむためのものなのだからなんであろうと
楽しいことに変わりはしないということをわかってないと信じ込んでしまいます。
教育者としては失格だと思いますね。本質というものは自主性を持たせた上で教えないといけない。
けど本来なら本質というものは自分で体感して解っていくものだからそもそも教えるのが無粋というものですが。
ちょっと逸れましたが楽しんでもらうためで無ければどんなものなのかということになります。
それについては完全に個人の解釈になってきますが普遍的に見ればこれが普通だと思っています。
そろそろ終わります。意見のある方は存分にどうぞ。
カウンタ数がまだ一日二十程度回ってたら驚きますがさすがにそれはないでしょうね。
では終了。さてどれぐらいのものか。